2015年 05月 10日
杉浦日向子の「百日紅」 by 原恵一 |
杉浦日向子の「百日紅」が映画化されたというので、首都圏の混雑を恐れて、早速朝一番の回で見に行ってきました。新装開店のシネコンで不慣れな係員に追い返されそうになりましたが(TOHOシネマズで買った前売券で109シネマズは入場できない、とか馬鹿を言う)。
感想は、丁寧に作っているけれど、映画の制約で登場人物が削られているのと、原作にあった江戸時代の価値観、ものの見方、道理といったものの味わいが、現代向けに修正されている気がして、そこいらが残念でした。
構成は、原作でも主人公であった北斎の娘、お栄とお直の交流を軸に、盲目に生まれて病弱なお直が亡くなる(その描写が江戸時代を感じさせる核なのですが)までを映画オリジナルエピソードを交えて描き、その間に「龍の絵」や「地獄の屏風絵」、「抜け首」、「陰間茶屋」等々のエピソードがはめ込まれています。
登場人物として、葛飾北明(1カットチラッと出ていた?)や歌川国芳、吉原の太鼓持ちが削られているのが原作ファンとしては物足りない気がしました。
ただ、残念なのは、ラストで北斎、英泉の没年と江戸時代の終了(お栄の没年は不詳)を字幕インポーズする、何か大河ドラマっぽいエンディングでした。
その前に、亡くなった妹に対して、現代ヒューマニズム的な救いを差し伸べようとするお栄のセリフ「お前が行ったのは××じゃない」(先立った不孝な子供が逝くところ、として淡々と妹が口にしていた)に居心地の悪さを感じました。原作ではその淡々とした諦観と亡くなった後の母親のセリフが相まって、悲しいんだけれど、江戸時代の、あの時代の悲しみ方なんだな、と現代と違うけれど妙にリアルであったところに、原作の持ち味があったと思います。それが変えられていた、または傷つけられていた様に感じたのです。
江戸の夜の暗さや日中の日向日蔭のコントラスト、火事の行き場を失った炎、静寂での衣擦れ音、といった映画独自の魅力も大きいのですが、(エレキギターの音は今一つ?)全体としては平均作、といったところでしょうか。
感想は、丁寧に作っているけれど、映画の制約で登場人物が削られているのと、原作にあった江戸時代の価値観、ものの見方、道理といったものの味わいが、現代向けに修正されている気がして、そこいらが残念でした。
構成は、原作でも主人公であった北斎の娘、お栄とお直の交流を軸に、盲目に生まれて病弱なお直が亡くなる(その描写が江戸時代を感じさせる核なのですが)までを映画オリジナルエピソードを交えて描き、その間に「龍の絵」や「地獄の屏風絵」、「抜け首」、「陰間茶屋」等々のエピソードがはめ込まれています。
登場人物として、葛飾北明(1カットチラッと出ていた?)や歌川国芳、吉原の太鼓持ちが削られているのが原作ファンとしては物足りない気がしました。
ただ、残念なのは、ラストで北斎、英泉の没年と江戸時代の終了(お栄の没年は不詳)を字幕インポーズする、何か大河ドラマっぽいエンディングでした。
その前に、亡くなった妹に対して、現代ヒューマニズム的な救いを差し伸べようとするお栄のセリフ「お前が行ったのは××じゃない」(先立った不孝な子供が逝くところ、として淡々と妹が口にしていた)に居心地の悪さを感じました。原作ではその淡々とした諦観と亡くなった後の母親のセリフが相まって、悲しいんだけれど、江戸時代の、あの時代の悲しみ方なんだな、と現代と違うけれど妙にリアルであったところに、原作の持ち味があったと思います。それが変えられていた、または傷つけられていた様に感じたのです。
江戸の夜の暗さや日中の日向日蔭のコントラスト、火事の行き場を失った炎、静寂での衣擦れ音、といった映画独自の魅力も大きいのですが、(エレキギターの音は今一つ?)全体としては平均作、といったところでしょうか。
by Real-Kid
| 2015-05-10 07:49
| パッケージソフト雑感