2011年 08月 16日
日本SFの創設者「小松左京」氏の逝去とSFの意義について |
小学校の頃からSF小説が好きで、ずっとSF小説ばかり読んでいました。
中学の頃には、米国や英国の巨匠(ハインラインやアジモフ、ヴォークト、クラーク等等)を読みふけっていました。
その中でも、同氏は、高校生くらいまで私の一番好んだSF作家でした。好む、というよりは、何か世界の真理を説いてくれる物凄く高位の知性の様に感じ、信奉していました。
それが、大学に入る頃から、だんだんSFから離れていくと共に、同氏の作品も読まなくなってきました。確か「さよならジュピター」の製作が決定的だった様に思います。今でも、それがどんなトンでも映画だったか、稚拙なものだったか、失笑を誘ったかは、いくらでも証言が拾えます。
こうしてSFから離れていった、興味を失っていったのが何故だったのか、自覚したのも同氏のお蔭でした。
2002年、小泉訪朝によって、戦後日本が北朝鮮を始めとする外国から侵略を受け続け、国民の生命や身体が蹂躙されていたのに、我が国は一切闘わず、国民を見殺しにしていた、どころか、当時の野党左翼政党に至っては、積極的に国民を犠牲にする手助けをしていた事が分かった時です。
ネットの記事で、小松左京氏が、大意「日本は戦争をしてはいけない。経験世代の自分だから分かるが、必勝の信念とかそういったスローガンに踊って、実力行使をするなととんでもない」という様な発言をしていたのを知った時でした。
小松氏の代表的なSFに、現在存在している国民国家が存続している作品は稀ですし、常に国家は相対化され、非合理・非理性を体表する旧世界の遺物でした。作者や主人公は、そうしたものを超越して、人類や知性体として物語の中を飛び回ります。
しかし、私には、そんな超越的知性が受け入れられない、何かうそ臭くて、ごまかしている印象が拭えなくなってきていたのです。現実には我々個人は国民国家の枠組みの中で、何とか社会生活を営み、生命を維持しています。
それがどんなにたよりないものであるかは、此度の東日本大震災とそれに続く民主党政権のジェノサイドで明らかになりました。小松左京氏の日本沈没やその第二部については、国土を失う大災害を経ても、日本人が生き残る、という楽観的なもので、好意的に読んでも、リアリティは感じられません。
これはつまり、同氏が、大東亜戦争中の屈辱的な個人の体験を我が国の在り方に敷衍して、脱国家を夢想し、国家の本当に瀬戸際の権力の行使に目を瞑っていたからのように思えます。
今もこうした人々は多くいます。拉致問題や領土問題になると、途端に饒舌になり、我が国に自制と譲歩を求めてやまない、そして、その理屈付けとして、ひたすら大東亜戦争以前の我が国を暗黒の中に閉じ込めてしまう人々。
私は、彼らを凶暴な駝鳥、と呼びますが、我々に百害有る存在です。
小松左京氏を筆頭に我が国のSF作家とその作品、というのは、そうしたひねくれた知性(リベラルとも言いますが)の紡ぎだす卑怯さの言い訳で、国家に代表される、伝統や文化に基盤を置く保守的な私の存在からは、軽々しく、嘘としか見えなくなっていたのだと思い至りました。氏の説いた作中の文明論や人類史等は、机上の空論に所謂史実を継ぎ接ぎした「作品」に過ぎない、自分が生きていて格闘している現実に生き残らせようと格闘している我が国の文明の前では、空言に過ぎない・・・としか思えなくなったのです。いや、それが、小説家としての氏の業績なのでしょう。
つまり、私は単なるエンターテインメントに何らかの文明論的な意味を見出し心酔していたが、それが裏切られたと、勝手に思い込んで、反発していっただけなのです。もっとも、私が熱中していた頃、それらが、単なる慰みであって、真面目に内容を受け取るべきではない、等とは誰も仰っていませんでしたが。
以前職務で、放射性廃棄物処分のシンポジウムに参加したとき、小松左京氏がパネリストとして出席なさっていましたが、昔読んだ本の作者だな、との考えしか浮かびませんでした。
ここまで書いていたら、先日8月14日の日経新聞の書評面に以下の記事を見つけました。彼らは、東日本大震災を経て、やはり同じ間違いを犯し、反省すらしないのです。
-------------------【以下引用開始】--------------------
日本経済新聞8月14日(日)「活字の海で」
「震災年、小松左京逝く『反戦』原点のSF再注目」
先月亡くなった作家・小松左京氏は、日本のSF小説の開拓者だった。その作品には、人類の運命を描く壮大なテーマを扱ったものが多かった。彼の影響は時代や国家を超えた作家にまで及ぶ。死後、著作が改めて注目されつつある。
2001年創刊で、小松自身が責任編集を務めた同人誌「小松左京マガジン」(イオ)。最後に手掛けた第42巻が7月に刊行された。そこで取り上げられた小説『地には平和を』は、15歳の少年兵を主人公に、史実の終戦記念日である8月15日を過ぎて、日本が本土決戦へ向かう物語。長年秘書を務めてきた発行人の乙部順子氏は、1960年に執筆されたこの小説を小松の「実質的なデビュー作で原点」と話す。
SF作家としての出発点には「反戦争」がある。乙部氏は「戦争をどうしたら後世に伝えられるかが大きなテーマだった」と振り返る。SFはそのための最適な手段だった。加えてSFならば反戦文学の領域にとどまらず、もっと大きな「文明」の問題も扱えると考えた。終戦当時14歳だった小松の思いが主人公に重なる。
小松が切り開いてきた日本のSFは「今や世界へ逆に影響を与えている」と話すのは、評論家で慶応大学教授の巽孝之氏。例として、今年2月に邦訳が出たドミニカ出身の作家、ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(都甲幸治・久保尚美訳、新潮社)を挙げる。ドミニカを舞台に”オタク”青年を主人公にした年代記がつづられる中、深作欣二が映画化した『復活の日』が何度も登場する。
『復活の日』では、冷戦下を舞台に地震と攻撃を誤認したコンピューターが核ミサイルの自動報復装置を起動する。1960年代、米ソ間の緊張が高まる中で、実体的にとらえた恐怖が「核のレトリックとしてディアスに影響を与えている」と巽氏は指摘する。
東日本大震災以後、今の日本を暗示したような小説『日本沈没』に再び関心が集まっている。文庫を刊行している小学館によると、月に100冊もなかった発注が、4、5月には1000部を超えたという。さらに、死後在庫切れとなり、7000部を増刷した。「SFという虚構の中に伝えたい真理を盛り込んだ」(乙部氏)という小松。巽氏は、「予知どころか創造したのではないかと思うようなものも多い」と話す。残した作品が持つ意味は小さくない。
(文化部 赤塚佳彦)
-------------------【以上引用終了】--------------------
「復活の日」は、生物兵器の漏出で人類が滅亡の危機に瀕するも、自動的な核兵器の報復攻撃の放射線によって、細菌が無力化され、人類の復活が始まるという皮肉な顛末を背景として、文明の崩壊やサバイバルに挑む人々の群像を描いた作品と記憶しています。多分この文化部の方は読んでいないのでしょうね。それとも慶応大学教授に煙に巻かれたかな?エンターテインメントの解説としては、どちらでも良いことですが。
中学の頃には、米国や英国の巨匠(ハインラインやアジモフ、ヴォークト、クラーク等等)を読みふけっていました。
その中でも、同氏は、高校生くらいまで私の一番好んだSF作家でした。好む、というよりは、何か世界の真理を説いてくれる物凄く高位の知性の様に感じ、信奉していました。
それが、大学に入る頃から、だんだんSFから離れていくと共に、同氏の作品も読まなくなってきました。確か「さよならジュピター」の製作が決定的だった様に思います。今でも、それがどんなトンでも映画だったか、稚拙なものだったか、失笑を誘ったかは、いくらでも証言が拾えます。
こうしてSFから離れていった、興味を失っていったのが何故だったのか、自覚したのも同氏のお蔭でした。
2002年、小泉訪朝によって、戦後日本が北朝鮮を始めとする外国から侵略を受け続け、国民の生命や身体が蹂躙されていたのに、我が国は一切闘わず、国民を見殺しにしていた、どころか、当時の野党左翼政党に至っては、積極的に国民を犠牲にする手助けをしていた事が分かった時です。
ネットの記事で、小松左京氏が、大意「日本は戦争をしてはいけない。経験世代の自分だから分かるが、必勝の信念とかそういったスローガンに踊って、実力行使をするなととんでもない」という様な発言をしていたのを知った時でした。
小松氏の代表的なSFに、現在存在している国民国家が存続している作品は稀ですし、常に国家は相対化され、非合理・非理性を体表する旧世界の遺物でした。作者や主人公は、そうしたものを超越して、人類や知性体として物語の中を飛び回ります。
しかし、私には、そんな超越的知性が受け入れられない、何かうそ臭くて、ごまかしている印象が拭えなくなってきていたのです。現実には我々個人は国民国家の枠組みの中で、何とか社会生活を営み、生命を維持しています。
それがどんなにたよりないものであるかは、此度の東日本大震災とそれに続く民主党政権のジェノサイドで明らかになりました。小松左京氏の日本沈没やその第二部については、国土を失う大災害を経ても、日本人が生き残る、という楽観的なもので、好意的に読んでも、リアリティは感じられません。
これはつまり、同氏が、大東亜戦争中の屈辱的な個人の体験を我が国の在り方に敷衍して、脱国家を夢想し、国家の本当に瀬戸際の権力の行使に目を瞑っていたからのように思えます。
今もこうした人々は多くいます。拉致問題や領土問題になると、途端に饒舌になり、我が国に自制と譲歩を求めてやまない、そして、その理屈付けとして、ひたすら大東亜戦争以前の我が国を暗黒の中に閉じ込めてしまう人々。
私は、彼らを凶暴な駝鳥、と呼びますが、我々に百害有る存在です。
小松左京氏を筆頭に我が国のSF作家とその作品、というのは、そうしたひねくれた知性(リベラルとも言いますが)の紡ぎだす卑怯さの言い訳で、国家に代表される、伝統や文化に基盤を置く保守的な私の存在からは、軽々しく、嘘としか見えなくなっていたのだと思い至りました。氏の説いた作中の文明論や人類史等は、机上の空論に所謂史実を継ぎ接ぎした「作品」に過ぎない、自分が生きていて格闘している現実に生き残らせようと格闘している我が国の文明の前では、空言に過ぎない・・・としか思えなくなったのです。いや、それが、小説家としての氏の業績なのでしょう。
つまり、私は単なるエンターテインメントに何らかの文明論的な意味を見出し心酔していたが、それが裏切られたと、勝手に思い込んで、反発していっただけなのです。もっとも、私が熱中していた頃、それらが、単なる慰みであって、真面目に内容を受け取るべきではない、等とは誰も仰っていませんでしたが。
以前職務で、放射性廃棄物処分のシンポジウムに参加したとき、小松左京氏がパネリストとして出席なさっていましたが、昔読んだ本の作者だな、との考えしか浮かびませんでした。
ここまで書いていたら、先日8月14日の日経新聞の書評面に以下の記事を見つけました。彼らは、東日本大震災を経て、やはり同じ間違いを犯し、反省すらしないのです。
-------------------【以下引用開始】--------------------
日本経済新聞8月14日(日)「活字の海で」
「震災年、小松左京逝く『反戦』原点のSF再注目」
先月亡くなった作家・小松左京氏は、日本のSF小説の開拓者だった。その作品には、人類の運命を描く壮大なテーマを扱ったものが多かった。彼の影響は時代や国家を超えた作家にまで及ぶ。死後、著作が改めて注目されつつある。
2001年創刊で、小松自身が責任編集を務めた同人誌「小松左京マガジン」(イオ)。最後に手掛けた第42巻が7月に刊行された。そこで取り上げられた小説『地には平和を』は、15歳の少年兵を主人公に、史実の終戦記念日である8月15日を過ぎて、日本が本土決戦へ向かう物語。長年秘書を務めてきた発行人の乙部順子氏は、1960年に執筆されたこの小説を小松の「実質的なデビュー作で原点」と話す。
SF作家としての出発点には「反戦争」がある。乙部氏は「戦争をどうしたら後世に伝えられるかが大きなテーマだった」と振り返る。SFはそのための最適な手段だった。加えてSFならば反戦文学の領域にとどまらず、もっと大きな「文明」の問題も扱えると考えた。終戦当時14歳だった小松の思いが主人公に重なる。
小松が切り開いてきた日本のSFは「今や世界へ逆に影響を与えている」と話すのは、評論家で慶応大学教授の巽孝之氏。例として、今年2月に邦訳が出たドミニカ出身の作家、ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(都甲幸治・久保尚美訳、新潮社)を挙げる。ドミニカを舞台に”オタク”青年を主人公にした年代記がつづられる中、深作欣二が映画化した『復活の日』が何度も登場する。
『復活の日』では、冷戦下を舞台に地震と攻撃を誤認したコンピューターが核ミサイルの自動報復装置を起動する。1960年代、米ソ間の緊張が高まる中で、実体的にとらえた恐怖が「核のレトリックとしてディアスに影響を与えている」と巽氏は指摘する。
東日本大震災以後、今の日本を暗示したような小説『日本沈没』に再び関心が集まっている。文庫を刊行している小学館によると、月に100冊もなかった発注が、4、5月には1000部を超えたという。さらに、死後在庫切れとなり、7000部を増刷した。「SFという虚構の中に伝えたい真理を盛り込んだ」(乙部氏)という小松。巽氏は、「予知どころか創造したのではないかと思うようなものも多い」と話す。残した作品が持つ意味は小さくない。
(文化部 赤塚佳彦)
-------------------【以上引用終了】--------------------
「復活の日」は、生物兵器の漏出で人類が滅亡の危機に瀕するも、自動的な核兵器の報復攻撃の放射線によって、細菌が無力化され、人類の復活が始まるという皮肉な顛末を背景として、文明の崩壊やサバイバルに挑む人々の群像を描いた作品と記憶しています。多分この文化部の方は読んでいないのでしょうね。それとも慶応大学教授に煙に巻かれたかな?エンターテインメントの解説としては、どちらでも良いことですが。
by Real-Kid
| 2011-08-16 21:03
| パッケージソフト雑感