2011年 06月 12日
「狂気」は猫だましで、日常では「常識」に敵わない |
山岸涼子先生について、日本人への差別発言に現れた、薄いサヨク思潮を背景とする認識の誤りについて記述した。ついでに先生の代表作とされている「天人唐草」を読んだときに感じた違和感について書き留めておく。
ストーリーは有名なので、詳細は省くが、旧家の一人息子で「戦後民主主義の風潮」に反して封建的で口うるさい(この辺から既に矛盾していますが)父親に、娘が精神的自立を妨げられ、結局、父親の愛人宅での急死による不倫の露見と強姦被害に遭ったことで精神に異常を来す、というもの。
初見は学生時代だったが、そんなものか、以上の感想は特になかった。ただ、強姦されて精神に異常を来す主人公の、うじうじとした被害者意識の固まりの精神、暗い情念が印象に残った作品だった。
ただ、その後再読の機会に感じていた違和感が、何とはなく形を取ってきた。この「封建的」という父親は何で家長なのに子供、一人(らしい)娘の行動に、母親を差し置いて一々小言を言うのか?(そんなの権威が無いだろう)とか、何でわざわざ娘を(結婚を後回しにして)働きに出したのか?(生活が苦しかったのだろうか)とか、2~3回見合いをさせてそれ以上結婚活動を推進せず、わざわざ婚期を逸しかけさせたのか?(旧家なら婿養子を必死に捜すのでは)とか、なんで妻が亡くなった後も恋人との逢瀬をこそこそ重ねていたの?(家長の権威で後妻にすればいいじゃん)。何というか、物語の書き割りと違って、戦後の風潮に迎合した、変に理解がある家庭環境で、厳しさが無いことが中心だった。
一番の違和感は、父親の不倫が明らかになったことで(しかし、主人公の実母が無くなった後も続いていたのだから、一時的な不倫、後は正統な恋愛)、彼女が受ける衝撃の中味だった。
-------------【以下引用】-------------
「娘にはこうあってはならないといい含めながら・・・」「自分が男として望んだ女はそれと正反対のものだった」「ならば響子の女としての姿はどこにあるのだろうか・・・・・」
-----------【以上引用終了】-----------
いや、恋人、よく言って妻にまで、男が求めるものには、性愛的な要素は当然ある。性欲をベースとした、恋愛の強烈なドライブが無いなら他人同氏がくっついて、一生、は大げさにしても、人生の重要な期間を一つ屋根の下で過ごしていこう、ということにはならない。しかし、そうした強力な感情は一時的で、後は家族愛を以て継続的・安定的に次世代を育み生命を繋いでいくことになる。これはこれで大変だし、重要なことで、愛情自体が性愛に劣るものではない。
だけど、ここで語られている事は、まるで自分の恋人が二股かけてて、もう一人の女が自分と全くタイプが違うのがショック、と言っているのと何処が違うのか。父親に性欲の対象として視られる娘、でそれが嬉しい、というような女性が存在する訳がないだろう、と思ったのだ。父性愛(父の性愛ではなくて、父性の愛ね、為念)は何処にもない。それとも山岸先生は父親か兄弟親族から、こうした方が男に好かれる、少なくとも俺は好みだ、というようなアドバイスでも受けてきていて、それが正常という家庭環境だったのだろうか?
しかし、やはり私の考えは未熟だった。一昨々日頃それに気付いた。つまり、これは、娘にとって父親が恋人であり、それで自足していた、という事、そしてその破綻が人生の終わりの様な、傍目にオーバーな衝撃の原因として描かれているのだ。娘が父親にとって「セックスをしなくても満足してくれる妻」の地位を自らの居場所にしていたけれど、父親の方が正常で、一生もたれ合っていけると思っていた娘に、人道に反するような異常性があった、という物語。
でも、それならそれで、山岸先生は物語のクライマックスに直ぐ近親相姦をもってくるなあ、というのが正直な感想だ。
東京都の条例に引っかからないだろうか。ああ、文学的だからいいのか。
「戦後民主主義」の薄っぺらい背景の書き割りや見せ物的な精神異常者の取扱い(路上を歩いていて親御さんが子供に、ジロジロ見ちゃいけません、というような非日常性)を除けば、意外と身も蓋もない話が多い、という気はする。
これも北教組を筆頭に、北の大地のサヨク風土が育んだものだろうか。
ストーリーは有名なので、詳細は省くが、旧家の一人息子で「戦後民主主義の風潮」に反して封建的で口うるさい(この辺から既に矛盾していますが)父親に、娘が精神的自立を妨げられ、結局、父親の愛人宅での急死による不倫の露見と強姦被害に遭ったことで精神に異常を来す、というもの。
初見は学生時代だったが、そんなものか、以上の感想は特になかった。ただ、強姦されて精神に異常を来す主人公の、うじうじとした被害者意識の固まりの精神、暗い情念が印象に残った作品だった。
ただ、その後再読の機会に感じていた違和感が、何とはなく形を取ってきた。この「封建的」という父親は何で家長なのに子供、一人(らしい)娘の行動に、母親を差し置いて一々小言を言うのか?(そんなの権威が無いだろう)とか、何でわざわざ娘を(結婚を後回しにして)働きに出したのか?(生活が苦しかったのだろうか)とか、2~3回見合いをさせてそれ以上結婚活動を推進せず、わざわざ婚期を逸しかけさせたのか?(旧家なら婿養子を必死に捜すのでは)とか、なんで妻が亡くなった後も恋人との逢瀬をこそこそ重ねていたの?(家長の権威で後妻にすればいいじゃん)。何というか、物語の書き割りと違って、戦後の風潮に迎合した、変に理解がある家庭環境で、厳しさが無いことが中心だった。
一番の違和感は、父親の不倫が明らかになったことで(しかし、主人公の実母が無くなった後も続いていたのだから、一時的な不倫、後は正統な恋愛)、彼女が受ける衝撃の中味だった。
-------------【以下引用】-------------
「娘にはこうあってはならないといい含めながら・・・」「自分が男として望んだ女はそれと正反対のものだった」「ならば響子の女としての姿はどこにあるのだろうか・・・・・」
-----------【以上引用終了】-----------
いや、恋人、よく言って妻にまで、男が求めるものには、性愛的な要素は当然ある。性欲をベースとした、恋愛の強烈なドライブが無いなら他人同氏がくっついて、一生、は大げさにしても、人生の重要な期間を一つ屋根の下で過ごしていこう、ということにはならない。しかし、そうした強力な感情は一時的で、後は家族愛を以て継続的・安定的に次世代を育み生命を繋いでいくことになる。これはこれで大変だし、重要なことで、愛情自体が性愛に劣るものではない。
だけど、ここで語られている事は、まるで自分の恋人が二股かけてて、もう一人の女が自分と全くタイプが違うのがショック、と言っているのと何処が違うのか。父親に性欲の対象として視られる娘、でそれが嬉しい、というような女性が存在する訳がないだろう、と思ったのだ。父性愛(父の性愛ではなくて、父性の愛ね、為念)は何処にもない。それとも山岸先生は父親か兄弟親族から、こうした方が男に好かれる、少なくとも俺は好みだ、というようなアドバイスでも受けてきていて、それが正常という家庭環境だったのだろうか?
しかし、やはり私の考えは未熟だった。一昨々日頃それに気付いた。つまり、これは、娘にとって父親が恋人であり、それで自足していた、という事、そしてその破綻が人生の終わりの様な、傍目にオーバーな衝撃の原因として描かれているのだ。娘が父親にとって「セックスをしなくても満足してくれる妻」の地位を自らの居場所にしていたけれど、父親の方が正常で、一生もたれ合っていけると思っていた娘に、人道に反するような異常性があった、という物語。
でも、それならそれで、山岸先生は物語のクライマックスに直ぐ近親相姦をもってくるなあ、というのが正直な感想だ。
東京都の条例に引っかからないだろうか。ああ、文学的だからいいのか。
「戦後民主主義」の薄っぺらい背景の書き割りや見せ物的な精神異常者の取扱い(路上を歩いていて親御さんが子供に、ジロジロ見ちゃいけません、というような非日常性)を除けば、意外と身も蓋もない話が多い、という気はする。
これも北教組を筆頭に、北の大地のサヨク風土が育んだものだろうか。
by Real-Kid
| 2011-06-12 21:54
| パッケージソフト雑感